あぢさゐの(あぢさゐの)

八重咲くごとく(やへさくごとく)

八つ代にを(やつよにを)

いませ我が背子( いませわがせこ)

見つつ偲はむ(みつつしのはむ)

意味:

アジサイの花の

色が変わる毎に、新しく花が咲くごとく

これからの次々の時代を

健康でいてくださいあなた様

花を見るたびに思い出します

作者:橘諸兄(たちばな の もろえ)

この歌は、天平勝宝7年5月11日(755年6月25日)に丹比国人真人(たぢひのくにひとまひと)の家にて、左大臣の橘諸兄が主人国人を祝って詠んだ歌である

橘諸兄の母は県犬養 三千代(あがたのいぬかいのみちよ)で父は、藤原不比等(ふじわらのふひと)、無位から家柄の良さで出世を続け、藤原四兄弟とともに政権を運営することになる。天平9年(737年)になると天然痘の流行によって、藤原四兄弟はじめ政権を運営していた関係者が死去しまうことにより、橘諸兄がトップに立ち橘諸兄政権を成立させた。橘諸兄は遣唐使帰りの吉備真備と僧侶の玄昉をスタッフに使い政治を始める。

天平12年(740年)になると、藤原広嗣が吉備真備と玄昉を使う橘諸兄を批判し、藤原氏が政権を奪還を目指して、九州で乱を起こすが失敗する。この後、時の天皇、聖武天皇が次のような遷都を繰り返すようになる。

740年    藤原広嗣の乱(終結741年)
741年    平城京 → 恭仁京
744年    恭仁京 → 難波宮
745年    難波宮 → 紫香楽宮 → 平城京

この間、橘諸兄は順調に出世を続け、天平15年(743年)従一位・左大臣に天平感宝元年(749年)4月には最も高い官位、正一位になる。

749年8月に孝謙天皇(女帝)が即位すると、橘諸兄に代わって藤原仲麻呂が力をつけるようになる。この頃より、橘諸兄の立場が悪くなる。そして橘諸兄の親族によるて謀反の企てが明らかになる。この件に関係することで、天平勝宝8歳(756年)2月に橘諸兄は辞職を申し出て引退した。これは、この歌が歌われた翌年のことです。歌の中で「これからの次々の時代を 健康でいてください」と歌っているのは、自分の政治生命も体力もやがて終わること理解して、あなたは頑張ってください。」と歌っているのです。橘諸兄はこの歌の2年後、天平勝宝9歳(757年、74歳)1月6日に死亡しています。

 

アジサイ:

アジサイは6月から7月頃に咲く低木の花で、原種は日本のガクアジサイです。万葉の時代のアジサイは、このガクアジサイだったようです。現在のアジサイは、戦後にたくさん品種が作られて多様なアジサイができたが、万葉の時代のには、シンプルなものだったようです。しかし、この歌にあるように、現在のアジサイの特徴である色が時間とともに変わって行くことは、この当時から同じだったようです。