前玉神社の入り口の鳥居

前玉神社は、埼玉古墳群に隣接する神社で、浅間塚古墳の上にあります。

祭神は、前玉彦命と前玉姫命が祭られています。前玉姫命は、古事記にその系譜の記載があります。古事記では、前玉姫命は、次の図のように大国主の神の三世の速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤジヌミ)の妃ということになっています。

前玉姫命(前玉比売)の系譜

この図における速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤジヌミ)は、前玉彦命のことでしょう。

この図における大国主神は、因幡の白うさぎで有名な神様で、その有能さと人格が父親の須佐之男命(すさのおのみことお)に認められ、芦原の中国(あしはらのなかつくに)の支配権を譲り受けた。この後、国譲りまでの期間「地上の国を治める主」として君臨したとされる。

大国主神は、出雲大社の祭神であり、国譲りまでの期間、出雲系の最高権力者だったと考えられるが、古事記においても日本書記においても現在の天皇家の先祖とされる須佐之男命と櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)の子または末裔とされる。ちなみに、須佐之男命は、天照大御神と兄弟的な位置づけとなっており、出雲と天皇家を無理やり結び付けた感じが強い。

ここで、前玉彦命が、大国主神の3世の子であるということは、かなりの高地位ということになる。大国主神の子供の数は古事記では180柱、日本書紀では181柱と書かれているが、日本全国の神社を大国主神の支配下に置くとすれば、この位の子供が必要だったでしょう。前玉彦命が古事記の系譜の中でかなり前の方に記載されているのでかなり高地位だったということは伺えます。武蔵国を管理する神社ということでは、それなりの地位があったとしても不思議はない。ただ、古墳の古さという面では比較的新しい時代に属するので、何らかの理由で、武蔵国の中で移転が行われた可能性が強い。

前玉彦命の本来名前である速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤジヌミ)の意味は、不明な部分が多いが次のようなことが考えられる。(参考:https://nihonsinwa.com/page/2187.html)

速甕之     素晴らしい甕(カメ)の(カメの美称)

多気 強い

佐  稲霊

波夜     地神

遅  大穴牟遅神(大国主神のこと)の遅を取ったもので大国主神の末裔を意味するのでは

奴美神 主の神霊

これらから名前の特徴と考えると「カメ作りと農業の大国主神の末裔神」とでもいうことが出来るでしょう。カメとは、焼物のカメで、農業の収穫物の保存に使った。最も重要なのは、米の保存や煮炊きでしょう。埼玉古墳からはたくさんの焼物が出土している。

どうして、速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤジヌミ)、こんな名前だったのでしょうか。前玉彦命の方が覚えやすく呼ぶには便利です。

出雲大社は、縁結びで有名ですが、旧暦の10月は「神在月(かみありづき)」と呼ばれ神様が大集合して縁結びの話会いをしているといいますが、当時、前玉彦命が出雲まで行って男女の縁結びをしているような暇はないでしょう。神様というのは、各地方の長官です。800年以前は、神主が地方長官を務めること多く、神社と政庁の区別も曖昧でした(参考文献:http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/shinsyoku_c.html#top)。よって、出雲に集まって行った縁結びは、地方と地方の技術力を合わせて新しい産業を作るような縁結びだったと考えられます。この場合、前玉彦命に必要なのは、この埼玉地方の名刺です。そこで、「カメ作りと農業の大国主神の末裔神」という名刺が必要なわけだったのです。埼玉地方は、古墳からの出土品で分かるように当時の先端技術である焼物の技術と生産力がありました。埼玉の古墳には、古墳の装飾用として円筒埴輪が広い古墳に隙間なく配置されているものがあったということです。技術力と共にものすごい生産力もあった訳です。

当時は写真のような円筒埴輪を30-40cm間隔で配置し俗世界と分離していた

 

また、もう一つの埼玉地方の技術力は、農業です。行田市の小敷田では、弥生時代に埼玉県で最初に米の生産が行われたといわれています。このようなことから前玉彦命は「カメ作りと農業の大国主神の末裔神」という名刺を持って出雲に行って縁結びに臨んだと考えされます。または、米つくりという技術を以前導入したかもしれません。また、米の保管のためには、当時カメがどうしても必要だったことも重要です。実際の所は、前玉彦の名前が、速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤジヌミ)になったのも後世の人が彼の働きを見て彼に付けた名前なのでしょう。

 

以上をまとめると、前玉神社の前身は、郡司や国造と神社機能を統合した政庁であったが、最終的に神社の機能のみになったと考えられます。この時代には、江戸時代に家康の身内が地方の城の主になっていったように大国主命の身内を中心として全国各地の神社を通じて全国の政治を行っていたと考えられます。

前玉神社の入り口近くに咲いていました。ショウジョウソウ(猩々草)と言って、ポインセチアと同じトウダイグサ科ユーフォルビア属に分類される一年草だそうです。