雉は、古代はキギシと呼ばれていた。万葉集では、すべての読みがキギシになっている。キジは用心深い鳥で、人影の多い忍川では見られない。しかし、人がほとんど入らない旧忍川の奥に入って行くと、見かけることがある。ただ、最近は、餌の関係か、お墓で見かけることもある。お供え物を狙っているのでしょう。本州で見かけるのはニホンキジという種類です。他の鳥と同様に雄の羽の色は緑の模様で派手であるが、雌の色は茶色で地味です。
鳥が鳴くというのは万葉集の鳥の歌で良くあるが、キジの場合、急に飛び立つというのが特徴かと思います。こちらが確認しない内に急にバタバタと逃げてしまうことが多いです。388の若年魚麻呂という人はどんな人か不明です。キジの歌でも大伴家持の歌が多いです。自然観察にも優れていたのでしょう。
9.1 万葉集 388・1446・1866・3210・3310・4148・4149
第3巻388
1 海神は くすしきものか わたつみは くすしきものか
2 淡路島 中に立て置きて あはぢしま なかにたておきて
3 白波を 伊予に廻らし しらなみを いよにめぐらし
4 居待月 明石の門ゆは ゐまちづき あかしのとゆは
5 夕されば 潮を満たしめ ゆふされば しほをみたしめ
6 明けされば 潮を干しむ あけされば しほをひしむ
7 潮騒の 波を畏み しほさゐの なみをかしこみ
8 淡路島 礒隠り居て あはぢしま いそがくりゐて
9 いつしかも この夜の明けむと いつしかも このよのあけむと
10 さもらふに 寐の寝かてねば さもらふに いのねかてねば
11 滝の上の 浅野の雉 たきのうへの あさののきぎし
12 明けぬとし 立ち騒くらし あけぬとし たちさわくらし
13 いざ子ども あへて漕ぎ出む 庭も静けし いざこども あへてこぎでむ にはもしづけし
意味:
1 海神は 神秘的で尊い
2 淡路島を 中に置いて
3 白波を 伊予に巡らせる
4 陰暦8月18日の月(やや遅く出るので座って待つ月) 明石海峡は
5 夕方になると 潮を満たして
6 夜が明ければ 潮が引く
7 潮騒の 波を恐れて
8 淡路島の 磯に船を隠して
9 今すぐに 夜が明けないかと
10 様子を見守っているので 寝るに寝ることができない
11 滝の上の 浅い草地のキジは
13 夜が明けたと 立ち騒いでいるらしい
14 いざ皆のもの 勇気を持って漕ぎ出よう 海も静かだ
作者:
若年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)となっているが、どんな人物かは不明です。この歌には、次のような反歌がついていますので、大和に住む官人ということは分かります。タイトルは羇旅の歌となっています。
島伝ひ 敏馬の崎を 漕ぎ廻れば 大和恋しく 鶴さはに鳴く
キジに対する表現は「草地にいる」ということで、特別なものではありませんが、鴨などではなかった表現です。
第8巻1446
春の野に あさる雉の 妻恋ひに おのがあたりを 人に知れつつ
はるののに あさるきぎしの つまごひに おのがあたりを ひとにしれつつ
意味:
春の野で 餌を漁りながらキジの 妻を呼ぶ声を出すので 自分のいる場所が 人に知られています
作者:
大伴宿禰家持(おおとものすくねいえもち) この歌は、春雑歌というタイトルの一連の歌の最後から2番目の歌で、大伴家持にとっては、初期の歌です。キジに対する表現ですが、「漁りながら妻を呼ぶ」ということで、鴨などでも良く出てきた表現で特別なものではありません。自分のいる場所が知られてしまうと言っていますので、キジの気持ちに同化しているのでしょう。
第10巻1866
雉鳴 高円の辺に 桜花 散りて流らふ 見む人もがも
きぎしなく たかまとのへに さくらばな ちりてながらふ みむひともがも
意味:
キジがなく 高円山(春日山の南の山)のあたりに 桜の花が風に流れる 一緒に見てくれる人が欲しいものだ
作者:
この歌の作者は不明です。この歌は「花を詠む」というタイトルの20首の歌の内の一つです。キジの美しさ、高円山の美さ、桜の花が風に流れる美しさなど非常に美しい状況ですが、自分がひとりで寂しいという対比がうまく表現されて良い歌だと思います。
第12巻3210
あしひきの 片山雉 立ち行かむ 君に後れて うつしけめやも
あしひきの かたやまきぎし たちゆかむ きみにおくれて うつしけめやも
意味:
なだらかに 一方が傾斜面の山からキジが 急に飛び立って行ってしまった 君の後に残され 正気でいられようか
作者:
この歌の作者は不明です。この歌のタイトルは、悲別歌というタイトルで歌われた歌の最後の歌です。歌だけでは解釈が難しいところがありますが、タイトルを見ると意味が良くわかります。また、ここで歌われているように、確かに、キジの逃げ足は速い、こちらが姿を確認できないうちに、一目散に逃げてしまう。そんな臆病だから、人のほどんど通わない奥の川に住んでいるのでしょう。君があっと言うまに去っていしまったという差し迫った表現がキジを使うことで良く伝わって来ます。
第13巻3310
1 隠口の 泊瀬の国に こもりくの はつせのくにに
2 さよばひに 我が来れば さよばひに わがきたれば
3 たな曇り 雪は降り来 たなぐもり ゆきはふりく
4 さ曇り 雨は降り来 さぐもり あめはふりく
5 野つ鳥 雉は響む のつとり きぎしはとよむ
6 家つ鳥 鶏も鳴く いへつとり かけもなく
7 さ夜は明け この夜は明けぬ さよはあけ このよはあけぬ
8 入りてかつ寝む この戸開かせ いりてかつねむ このとひらかせ
意味: 四方から山の迫る 泊瀬(桜井市東部の初瀬川渓谷)の国に
夜這いに 私が来ると
空が一面に曇り 雪が降って来た
そう、曇り 雨が降って来た
野の鳥の キジの声が響く
家の鳥の 鶏も鳴いた
夜は明けたが 私の夜は明けない
君の家に入って寝たい この戸を開けてくれ
作者:
この歌の作者は不明です。この歌は、天皇が泊瀬娘子に妻問いするような歌になっていますが、余興的作成されたものと思われます。この歌の後ろには、類似の歌が少し続きます。キジを持ってきたのは、少し気品の高さを表現したものと思われますが、すぐに鶏を出したのは、現実的なものに戻したもでしょう。
第14巻3375
武蔵野の をぐきが雉 立ち別れ 去にし宵より 背ろに逢はなふよ
むざしのの をぐきがきぎし たちわかれ いにしよひより せろにあはなふよ
意味:
武蔵野の 山の洞穴に住むキジが飛び立つように 立ち分かれて 家を去った宵より あなたに逢えなくなりました
作者:
作者は不明です。「せろ」は「せこ」(夫子)の東国方言。「なふ」は東国の打消しの助動詞。ここでもキジの飛び去る速さを例えとして使っています。この歌の前後には、次の武蔵野の歌が9首続いています。
3374 武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり
3375 武蔵野のをぐきが雉立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ
3376 恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ
3377 武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを
3378 入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね
3379 我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを
3380 埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね
3381 夏麻引く宇奈比をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我が下延へし
3381は、なぜ武蔵野の歌に分類されているのかは、不明です。宇奈比もどこであるかは不明ですが、宇奈比川が富山県氷見市に宇波川があり、これが相当するという。この当たりには、大伴家持の歌がたくさんある。
また、ここでいう武蔵野と武蔵国(埼玉、東京、神奈川の東部)の範囲が同じかどうかは明確でありませんが、武蔵国のかなりの部分が武蔵野であったと考えられます。3380には埼玉の津の歌があります。武蔵野の歌としても実際の歌の場所が不明な歌がほとんどですが、武蔵国で埼玉の津は有名な場所であったようです。
埼玉(さきたま)には、日本でも有数の大き古墳ながあり、そこは間違いなく武蔵国です。埼玉古墳郡の稲荷山古墳からは「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が発掘されて、それには、「辛亥年」に作られた旨の記録されています。この辛亥年とは、471年または、531年が該当する。
また、日本書記の安閑天皇の元年(534年)に武蔵国造の乱という記述があり、当時の武蔵国造は笠原直使主(かさはらのあたいおみ)であることが記録されている。鉄剣の辛亥年が531年の場合、武蔵国造の乱の3年前に、鉄剣が造られたことになり、鉄剣を埋めたのは、笠原直使主であろう。この場合、鉄剣に記されたヲワケの臣(乎獲居臣)は笠原値使主である可能性が高い。辛亥年が471年なら、オワケが鉄剣を埋めた63年後に笠原直使主は戦いを行ったということになる。
その笠原氏の館は、まだ発見されていない。鴻巣に笠原という地区があるので、その近くではという話もある。
乱の平定後、安閑天皇に貢進した屯倉として、次の4箇所を寄進したことが記録されている。
横渟屯倉(よこぬのみやけ) —- 武蔵国横見郡、現在の埼玉県比企郡吉見町
橘花屯倉(たちばなのみやけ) — 武蔵国橘樹郡御宅郷、現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬から横浜市港北区日吉
多氷屯倉(おほひのみやけ) —- 武蔵国多磨郡(たまぐん、のち多摩郡)、東京都あきる野市
倉樔屯倉(くらすのみやけ) —- 武蔵国久良郡(くらきぐん、のち久良岐郡)、現在の神奈川県横浜市
武蔵国の地域には、知々夫(ちちぶ)、无邪志(むさし)、胸刺(むねさし)の三国があっという。知々夫は現在の秩父に相当し熊谷近辺までが属していたという。
興味あることに、安閑天皇に屯倉として差し出した4か所は、戦いの後の无邪志(むさし)と他領との境と思われる。屯倉を差し出す場合、自領の中に屯倉を作れば管理上邪魔になるので、自領の最も外れに作るのが通常だろう。すなわち他領との境になるのである。横浜市は南端、あきるの市は、胸刺との境界と考えられる。ただ、吉見町は比企郡も含めて考えると、知々夫(ちちぶ)との境界であろう。この屯倉の中に、反乱を起こした同族の笠原直小杵(おき)の領地があったと考えられえる。
私は個人的には、吉見町だと考えている。狭い吉見や比企郡が笠原直小杵の領域で、東京湾まで続く広い領域が笠原直使主の領域だとしたら反乱を起こしたくなるのは当然でしょう。上毛野国と親交を深めたり助けを借りるのにもこの場所なら好都合である。
これに対して、南の東京湾近くに笠原直小杵の領域があったとする説もあるが、この位置が小杵の領域だとしたら、何も同族に戦いを挑む必要はなかったと考える。他国と戦うことが選択できたはずだ。その場合、笠原直使主も協力する可能性もある。
この地方にたくさんある氷川神社の位置を地図上にプロットすると氷川神社のある場所と无邪志(むさし)の領域は重なってくる。笠原直使主が无邪志の国造ならば、氷川神社との関係が深いと考えるし、保護していたとしても当然である。埼玉県内では洪水が非常に多かった。その中でも洪水の被害のない大宮台地の中心である大宮の武蔵一宮氷川神社の近辺に笠原氏の館があった可能性が高いと考えている。
森田 悌によると笠原 直と同族の小杵との国造争いにおいて、笠原 直は都の朝廷に助けを求め戦いに勝った。その結果、実際の戦いのために都から武蔵国に入った物部氏の力が武蔵国で強くなり、笠原 直は、物部 直として武蔵国造に起用されたと考える。また、埼玉で物部氏の力が強まったことを示す証拠として、万葉集の埼玉の防人の歌の妻が物部刀自賣になっていることが上げられるし、大里条理には、物部の里が出てくるという。
埼玉で作られた万葉集の歌
20巻4423
足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも
作者:
藤原部等母麻呂
20巻4424
色深く 背なが衣は 染めましを み坂給らば まさやかに見む
作者:
妻物部刀自賣
第19巻4148
杉の野に さ躍る雉 いちしろく 音にしも泣かむ 隠り妻かも
すぎののに さをどるきぎし いちしろく ねにしもなかむ こもりづまかも
意味:
杉の野原で 激しく飛び跳ねているキジ 著しい 声を出して泣く 隠り(亡くなった)妻かも
作者:
大伴宿禰家持(おおとものすくねいえもち)この歌のタイトルは、暁に鳴くキジを聞く歌二首となっていて次の4149と組みになっています。
第19巻4149
あしひきの 八つ峰の雉 鳴き響む 朝明の霞 見れば悲しも
あしひきの やつをのきぎし なきとよむ あさけのかすみ みればかなしも
意味:
山すそを長く引く たくさんの峰のキジ 鳴いて声を響かせている 朝明けの霞を見れば悲しい
作者:
大伴宿禰家持(おおとものすくねいえもち)この歌は、前の4148と対になっている歌です。よってこの歌でもキジの声に亡くなった妻を重ねて、さらに霞を重ねています。