第2巻112
いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 我が恋ふるごと
いにしへに こふらむとりは ほととぎす けだしやなきし あがこふるごと
意味:
昔に 心引かれている鳥は ホトトギスです もしかしたら鳴いているのかも知れません 私が恋ているように
作者:
額田王(ぬかたのおおきみ)この歌には、額田王、和(こた)へ奉る歌というタイトルがあるから、この前の歌のなぞを解いた歌です。この112番の歌はなぞときの歌で、その鳥はホトトギスだと返しているのです。
なぞかけをした歌は、次の111番の歌で、この歌を作ったのは弓削皇子です。
第2巻111
吉野の宮に幸(いま)す時に、弓削皇子の額田王に贈与る歌
いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉(ゆづるは)の 御井(みゐ)の上より 鳴き渡り行く
意味:
遠い昔に 心引かれる鳥でしょうか 弓弦葉の 御井の上より 鳴き渡り行ったのは
天武天皇の第九子と言われるが不遇であり27才程度で薨去されたといわれる。それ故に弓削皇子は、いにしへに恋ふる鳥だったのであり、弓弦葉の御井の上より鳴き渡り行ったのは弓削皇子自身だったのです。それを理解した額田王がこの不遇な鳥は、中国で懐古の悲鳥呼ばれる霍公鳥だと応えたのです。天智天皇亡き後、額田王は弓削皇子の気持ちを理解するところがあったようです。「弓弦葉の御井の上より」は弓弦葉の去年の葉が今年の新葉を差し上げるような形になっていて、親から子への世代交替(ゆずる)を表現していますが、弓削皇子の場合は、この世代交代がうまく行かず、飛び立って行く鳥を自分に重ねています。
弓弦葉は、現在一般的には、ユズリハと呼ばれていますが、弓弦葉(ユズルハ)は別称になっています。写真のように去年の葉が、下がって今年の葉を差し上げています。
第3巻423
1 つのさはふ 磐余の道を つのさはふ いはれのみちを
2 朝さらず 行きけむ人の あささらず ゆきけむひとの
3 思ひつつ 通ひけまくは おもひつつ かよひけまくは
4 霍公鳥 鳴く五月には ほととぎす なくさつきには
5 あやめぐさ 花橘を あやめぐさ はなたちばなを
6 玉に貫き(貫き交へ) かづらにせむと たまにぬき (ぬきまじへ) かづらにせむと
7 九月の しぐれの時は ながつきの しぐれのときは
8 黄葉を 折りかざさむと もみちばを をりかざさむと
9 延ふ葛の いや遠長く(葛の根の いや遠長に) はふくずの いやとほながく(くずのねの いやとほながに)
10 万代に 絶えじと思ひて(大船の 思ひたのみて)よろづよに たえじとおもひて(おほぶねの おもひたのみて)
11 通ひけむ 君をば明日ゆ(君を明日ゆは) かよひけむ きみをばあすゆ (きみをあすゆは)
外にかも見む よそにかもみむ
意味:
1 石のごつごつした 磐余の道を
2 朝いつも 通っていたあなたが
3 思いながら 通ったであろうことは
4 ホトトギスの 鳴く五月には
5 アヤメ 花橘を
6 くす玉にして 髪飾りにしようと
7 九月の 冷たい雨の時は
8 もみじを 折って髪飾りにしようと
9 はう葛のように 本当に遠く長く
10 限りなく長い年月に このような生活が絶えることはないと思って
11 通っただろう 君を明日から この世の外の人として見るのか
作者:
山前王(やまさきのおおきみ)ただし、この歌には石田王が卒(みまか)りし時に山前王が悲しみて作る歌というタイトルが付いている。ただ、歌の末尾には、或いは柿本人麻呂作であるという説明がついているので柿本人麻呂作の可能性もある。山前王(男性)は天武天皇の孫、忍壁皇子の子、石田王(男性)は山前王の兄弟である。万葉集の420から425は石田王がなくなったことを、悲しんで歌った歌です。420から422の作者は丹生王となっていますが、これは石田王の妻で丹生女王であるといわれています。423から425は山前王の歌といわれています。これ以外に丹生女王が作った歌は万葉集で3首ありますが、いづれも大伴旅人に贈った歌です。歌の内容は恋の歌とばかりは言い切れない微妙なものですが、難解です。かつて恋したがその後も含めて複雑なものだったのでしょう。
第6巻1058
狛山に 鳴く霍公鳥 泉川 渡りを遠み ここに通はず ( 渡り遠みか通はずあるらむ)
こまやまに なくほととぎす いづみがは わたりをとほみ ここにかよはず (わたりとほみか かよはずあるらむ)
意味:
狛山(京都府木津川市)に 鳴くホトトギスは 泉川(木津川のこと)が 渡るには遠いので ここには来ない
作者:
田辺福麻呂(たなべのさきまろ)田辺福麻呂歌集にある歌です。この歌の前に25首の歌が田辺福麻呂歌集から取られていま
す。すべて宮廷儀礼歌です。
第8巻1465
霍公鳥 いたくな鳴きそ 汝が声を 五月の玉に あへ貫くまでに
ほととぎす いたくななきそ ながこゑを さつきのたまに あへぬくまでに
意味:
ホトトギスよ あまり激しく鳴かないでおくれ お前の声を 五月の節句の薬玉に 合わせて通す日までは
作者:
藤原夫人(ふじわらのぶにん)藤原夫人とは五百重娘(いおえのいらつめ)という飛鳥時代の女性で藤原鎌足の子で大原大刀自(おおはらのおおとじ)とも呼ばれている。ホトトギスは「特許許可局」という鳴き声で有名な鳥です。実際には「とっきょきょかきょ」だったり、「とっきょきょかきょく」になったりしています。万葉の時代には、この歌のようにホトトギスの声を節句の薬玉(花飾り)を作るときに混ぜるということが、考えられていたようです。この歌は、ホトトギスを歌った万葉集最古の歌です。
第8巻1466
神奈備の 石瀬の社の 霍公鳥 毛無の岡に いつか来鳴かむ
かむなびの いはせのもりの ほととぎす けなしのをかに いつかきなかむ
意味:
神が天から降りてよりつく 岩の多い川の浅瀬の社の ホトトギスが 禿山の岡に いつ来て鳴くのでしょうか
作者:
志貴皇子(しきのみこ)志貴皇子については、3.1章の第1巻64でも触れたが、天智天皇の子であっが、壬申の乱で天皇が天智天皇系から天武天皇系に移ったために天皇とは無縁で和歌等の道に進んた。しかし、薨去から50年以上後に志貴皇子の第6子が光仁天皇に即位した。この結果、志貴皇子の系統が現在の天皇まで続くことになった。また、11.2章の第3巻239では天武天皇は、次の天皇として草壁皇子を指定して他の皇子がこれを助けて争わないとした吉野の盟約というものがあるが、これに参加したのは、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子でした。しかし、草壁皇子は若くして亡くなったために天皇になれなかった。その他の皇子も天皇にはなれなかった。天皇になれなかった理由の最大の原因はらが天武天皇の皇后(後の持統天皇)の子ではなかったからです。天皇になる可能性のあった大津皇子などは、謀反の罪で自害に追い込まれている。
1466の歌の意味は、「自分(志貴皇子)はいつ天皇になれるのでしょうか」と歌っているのです。この歌でホトトギスは天皇で、禿山の岡は、冷遇されている志貴皇子です。こんな歌が歌えるものでしょうか。大津皇子の例など考えるとあまりにも危険な内容です謀反の計画があるとして暗殺の対象になる。そんな自覚はなかったのでしょうか。最初に説明したように、志貴皇子がなくなってから50年以上後に、志貴皇子の子供が光仁天皇になり、志貴皇子は春日宮御宇天皇の追尊を受けた。そんなところから考えると後の時代に光仁天皇の即位を見た別人が歌ったのではないかと考えても不思議はないような気がします。
第8巻1467
霍公鳥 なかる国にも 行きてしか その鳴く声を 聞けば苦しも
ほととぎす なかるくににも ゆきてしか そのなくこゑを きけばくるしも
意味:
ホトトギスの いない国にでも 行ってしまいたいものだ その鳴く声を 聞けば苦しいことよ
作者:
弓削皇子(ゆげのみこ)天武天皇の第九皇子であるが、詳細は書かないが、難しい人生を送ったようです。
第8巻1468
霍公鳥 声聞く小野の 秋風に 萩咲きぬれや 声の乏しき
ほととぎす こゑきくをのの あきかぜに はぎさきぬれや こゑのともしき
意味:
ホトトギスの 声の聞こえる小さな野では 秋風に 萩が咲いてしまったからかそんな季節でないのに 声が少ない
作者:
小治田広瀬王(おわりだのひろせおう)広瀬王は敏達天皇の孫で、現在の明日香村付近の小治田に住んでいた。この歌には、小治田の広瀬王が霍公鳥の歌一首というタイトルが付いている。
第8巻1469
あしひきの 山霍公鳥 汝が鳴けば 家なる妹し 常に偲はゆ
あしひきの やまほととぎす ながなけば いへなるいもし つねにしのはゆ
意味:
すそを長く引く 山のホトトギス あなたが鳴けば 家にいる妻を いつも自然に思い出される
作者:
この歌の作者は不明です。仏門に入って十戒を受けたばかりの僧(沙弥(さみ))が作ったホトトギスの歌というタイトルが付いている。
第8巻1470
もののふの 石瀬の社の 霍公鳥 今も鳴かぬか 山の常蔭に
もののふの いはせのもりの ほととぎす いまもなかぬか やまのとかげに
意味:
武人たちの 岩の多い川の浅瀬の社の ホトトギス 今も鳴いて欲しいな 山のいつも日の当たらない場所に
作者:
刀理宣令(とりのせんりょう、とりのみのり、とりののぶよし)渡来系氏族で、聖武天皇に仕えた。タイトルは、刀理宣令の歌。
第8巻1472
霍公鳥 来鳴き響もす 卯の花の 伴にや来しと 問はましものを
ほととぎす きなきとよもす うのはなの ともにやこしと とはましものを
意味:
ホトトギスが やって来て鳴き響かせている うつぎの花と 一緒にやって来たのかと 問いて見れば良いですね
作者:
石上堅魚(いそのかみのかつお)奈良時代の官人。728年頃、大伴旅人(おおとものたびと)大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任したがその年に大伴郎女が死去した。この際に石上堅魚は式部大輔(たいふ)として弔問使のために大宰府へ行った。このことから、大伴旅人と大伴郎女が仲良くいつも一緒にいたことから、ホトトギスとうつきの花を大伴旅人と大伴郎女に掛けて歌ったのです。