第3巻239

1   やすみしし 我が大君          やすみしし わがおほきみ
2   高照らす 我が日の御子の       
たかてらす わがひのみこの
3   馬並めて 御狩り立たせる       
うまなめて みかりたたせる
4   若薦を 狩路の小野に         
わかこもを かりぢのをのに
5   獣こそば い匍ひ拝め         
ししこそば いはひをろがめ
6   鶉こそ 匍ひ廻れ            
うづらこそ いはひもとほれ
7   獣じもの い匍ひ拝み          
ししじもの いはひをろがみ
8   鶉なす い匍ひ廻り           
うづらなす いはひもとほり
9   畏みと 仕へまつりて          
かしこみと つかへまつりて
10  ひさかたの 天見るごとく         
ひさかたの あめみるごとく
11  まそ鏡 仰ぎて見れど           
まそかがみ あふぎてみれど
12  春草の いやめづらしき 我が大君かも 
はるくさの いやめづらしき わがおほきみかも

意味:
1   国の隅々までお治めになっている 我が天皇の
2   空高く照る 我が日の御子(長皇子、ながのみこ)は

3   馬を勢揃いさせて 狩りをしようとお立ちになった
4   若いマコモ刈る 狩路の野原に
5   獣ならば 這い拝がもう
6   ウズラだったら 這い廻ろう
7   獣のようなものだったら 這い拝がもう
8   ウズラのようなものだったら 這い廻ろう
9   恐れ慎んで つかえ奉りて
10  久方の 天見るように
11  真に澄んだ鏡のように 仰ぎ見れど
12  春草のようにめでたく いや愛するべき 我が大君よ
作者:
柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそんひとまろ)この歌には、長皇子が、狩路の池に遊(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌というタイトルが付いている。長皇子は、天武天皇の第七皇子である。天武天皇には、次の天皇として草壁皇子を指定して他の皇子がこれを助けて争わないとした吉野の盟約というものがあるが、これに参加したのは、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子であり、長皇子はこれには参加していない。年齢が少し若かったのかも知れませんが、後年は、この歌のように人気が高かったようです。

 

第3巻478

   かけまくも あやに畏し         かけまくも あやにかしこし
2   我が大君 の命の            
わがおほきみ みこのみことの
3   もののふの 八十伴の男を        
もののふの やそとものをを
4   召し集へ 率ひたまひ          
めしつどへ あどもひたまひ
5   朝狩に 鹿猪踏み起し          
あさがりに ししふみおこし
6   夕狩に 鶉雉踏み立て          
ゆふがりに とりふみたて
7   大御馬の 口抑へとめ          おほみまの くちおさへとめ
8   御心を 見し明らめし          
みこころを めしあきらめし
9   活道山 木立の茂に           
いくぢやま こだちのしげに
10  咲く花も うつろひにけり        
さくはなも うつろひにけり
11  世間は かくのみならし         
よのなかは かくのみならし
12  ますらをの 心振り起し         
ますらをの こころふりおこし
13  剣太刀 腰に取り佩き          
つるぎたち こしにとりはき
14  梓弓 靫取り負ひて           
あづさゆみ ゆきとりおひて
15  天地と いや遠長に           
あめつちと いやとほながに
16  万代に かくしもがもと         
よろづよに かくしもがもと
17  頼めりし 皇子の御門の         
たのめりし みこのみかどの
18  五月蝿なす 騒く舎人は         
さばへなす さわくとねりは
19  白栲に 衣取り着て           しろたへに ころもとりきて
20  常なりし 笑ひ振舞ひ          
つねなりし ゑまひふるまひ
21  いや日異に 変らふ見れば 悲しきろかも 
いやひけに かはらふみれば かなしきろかも

意味:
   言葉に出していうことも  言い表しようがなく恐れ多い
2   我が天皇の 皇子は
3   官人として 朝廷に仕える多くの男を
4   お呼び集め 引き連れなさる
5   朝狩に 鹿や猪を踏み起し
6   夕狩に ウズラやキジを踏み込んで追い立て
7   大きい馬の 口を抑えて止めて
8   お心を 辺りを見て明らかにした
9   活道山(久邇京=恭仁京、木津川市近くの山)の 木立の茂みに
10  咲く花も 盛りを過ぎて衰えた
11  世の中は このようである
12  強い男の 心を振り起こし
13  剣(つるぎ)を 腰におびて
14  梓の木で作った丸木の弓を 矢用の靫(ゆき)に入れて背負い
15  天地と いやはや遠く遥かに
16  限りなく長い年月を こうでありたいと
17  頼りに思わせる 皇子の宮に
18  夏の初めに群がる蠅のように 騒く付き人は
19  白い布の 衣を着て
20  いつもの 笑ひ振舞ひが
21  日増しに 変わって行くのを見れば 悲しいものだ
作者:
大伴宿祢家持(おおとものすくねやかもち)「天平16年3月24日安積皇子が亡くなったときに、天皇の側近(内舎人、うどねり)大伴宿祢家持が作った6首の歌」というタイトルの付いた歌の一つである。安積皇子は、聖武天皇の第二皇子である。
第一皇子は、基皇子は生まれて32日目に皇太子に任命された。聖武天皇の異常な愛情の結果である。しかし、1歳になる前に病死してしまう。この病死が問題になる。病死の原因は、馬屋王が基皇子を殺すために呪いをかけたからだという。馬屋王は呪いをかけるために呪詛の修行をしていたのだという濡れ衣(無実の罪)である。この罪のために馬屋王の邸宅は藤原四兄弟(藤原不比等の4人の息子、智麻呂、房前、宇合、麻呂の軍)に取り囲まれ、この中で馬屋王は自殺に追い込まれる。

この結果、安積皇子は、聖武天皇の第二子であり、他に男子がいなかったので、皇太子になる可能性が有望になった。しかし、実際には皇太子になれない。それは、安積皇子が、聖武天皇の正妻の子でなかったからである。こうして、聖武天皇の次の天皇のためには、聖武天皇の正妻の光明皇后の女子(阿倍内親王、後の孝謙天皇・称徳天皇)が立太子される。

このような条件で、当初、有望だった安積皇子はまわりに、たくさんの舎人を引き連れていた。しかし、皇子の立太子の可能性がなくなるについて、これらの人々が皇子の近辺から離れて行く。このように皇子を取り巻く世の中が変わって行く寂さを、安積皇子の死に望んで挽歌として歌ったものです。安積皇子の死は16歳のときで脚気が原因というが、毒殺のうわさもある。毒殺なら阿倍内親王の立太子を確実にするためと思われる。このこのような天武天皇系の皇子には、様々な理由で皇子の暗殺事件が続き、これが後年天武天皇系の天皇から、かって争った天智天皇系の天皇の時代に変わって行く原因となった。

この歌の中で、ウズラとキジは「夕狩に ウズラやキジを踏み立て」と歌われているが、キジとウズラは同じキジ科で、空をスイスイ飛び回るような鳥ではなく、草むらを歩くまたは、走るような鳥です。ただ飛ばないことはないですが、飛ぶことは上手ではないようです。地面をあるく、または、走るような生態です。この歌はこのようなウズラやキジの生態を良く表していると思います。