3.7 西行の歌碑

西行の歌碑

前玉神社の中段の通路に、上の歌碑があります。これは西行の歌です。歌碑の歌の書き方は表と裏で少し違いがあります。

やわらくる ひかりをはなに かさられて 名をあらわせる さ記たまの宮 (表)

やわらぐる ひかりをはなに かざされて 名をあらわせる さきたまの宮 (裏)

意味は次のようになります。

天地を従わせ 威光を栄華に 飾られて 有名になった さきたまの宮

さきたま古墳の所有者は、かつて天と地を支配した その栄光と栄華により 飾られて 有名なった さきたまの宮 と褒めたたえています。

ここで「やわらぐる」は「鬼の心も和らげる」の意味で、民衆の心を和らげる、すなわち、「天地を従わせる」の意味と解釈しました。国を治める人たちにとって、意見や立場の違いで武器を持って戦いになるこの時代に「やわらぐる」という言葉はだれでもが感じている重要なことばであったと考えます。また、「ひかりをはなに」は「ひかり」を「威光」、「はな」を「栄華、栄誉」と解釈しました。国を治めることができた威光や栄誉とは、さきたまの宮に対する最大の褒め言葉です。日本の古い神社は、かつての政庁で、神社と政庁を兼ねていました。神社の神主が国守であるのも古い時代には当たり前でした。よって政庁としての宮は神社でもあった訳ですが、現在は単に神社の形で残っていることが多いです。

西行の歌碑(裏側)

 

この石碑には、宮司(田島邦夫)石工(内田松清)と本人の名前が記載されているが、奉納者は、「西行参拝約八百年記念金婚に当り神仏に感謝して 一老夫婦」と記載されているのみで名前は記載されていない。奉納者の奥ゆかしさが感じられるという。この碑の奉納者は、行田在住で歴史関係で功績のあった川鍋重寿氏であるという。

西行(1118年ー1190年)がこの歌をいつ歌ったのかは明確ではありません。西行は、一生の間に2回、陸奥の旅に出ている。この2度の陸奥の旅のどちらかで埼玉(前玉)神社に寄ったときの歌で、埼玉古墳の過去の栄光を歌ったものです。歌の内容をよく見ると、内容が深いので若い頃の歌でなく、年齢のいった2度目の陸奥の旅の歌である可能性が高い。

西行の俗名は佐藤義清(のりきよ)、23歳までは北面の武士(鳥羽法皇を守るための近衛武士団)として鳥羽法皇に使えていましたが、23歳で出家。出家後は北山、東山、嵯峨などに数年の間移り住んで、自分の落ち着ける場所探しをしていたが、なかなか落ち着ける場所が見つからないし、世捨て人の心にもなれない。そんなことから都を離れて旅に出ることを思いつき遠い陸奥へ一度目の旅に立った。それが20歳代の後半から30歳の頃と言われる。西行の旅は、能因法師の旅に刺激されての旅立ちであったと考えられている。能因法師は16歳で、出家して各地の歌枕(過去に有名な歌が歌われた場所)を訪ねている。

西行の二度目の陸奥の旅は69歳のときで、平家による南都焼き討ちで焼失した東大寺の再建のために奥州の藤原秀衡に砂金の勧進を依頼する旅であったと言われています。この時代は、鎌倉の頼朝の政権が平家や義経に勝利して一応安定し、これから奥州藤原を取り込もうとしている最中の時代でした。

西行の没年は1190年(享年73歳)で、没地、墓所は、大阪府南河内郡河南町弘川の弘川寺、現在、西行記念館や西行堂などの施設がある。

西行を考えて一番問題になるのは、何故、出家することになったのかですが、明確な答えはない。

鳥羽法皇に出家のいとまを申し込むときに歌った次の歌は、出家の理由の一つの答えを暗示しているものと思われる。

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ

意味:

いくら大切に思っても きっと大切に思われない この世では 身を捨てて仏門に入ることが 身を助けるのだろう

この歌の後、鳥羽法皇が死亡する(1156年)ことにより、法皇、上皇、天皇と複雑になっていた朝廷の権力争いを原因として、これらを支えていた近衛部隊の武士団が武力で争うことになり、次の乱が発生する。

1156年 保元の乱  宗徳上皇(源為義・為朝・平忠正)が後白河天皇(源義朝・平清盛)と戦う。

後白河天皇が勝利し、負けた宗徳上皇は讃岐に流され、その他は処刑される。

1159年 平治の乱 後白河院制で源義朝と平清盛が戦う。

源義朝は敗死、源義朝の子(源頼朝)は伊豆へ流される。

戦いを収めるためには武士が大きな力を発揮した。このことで武士の力が明確になり朝廷の時代から武士の時代に変わっていった。このような不安な時代が来ることを西行は予感して先の歌を歌ったものと考えられるし、近衛武士団に属していた佐藤義清がこのような不安な時代が到来することを感じた取ったことが彼の出家の原因の一つになったと考えられる。西行は出家後も、朝廷の人たちと親しく親交している。このことは西行を複雑なものにしている。歌人としても歴史上の人物としても興味深いものがあります。