下の写真は、昭和30年代のさきたま古墳の丸墓山です。回りのほとんどの部分が田んぼでした。
昭和30年代の丸墓山古墳
行田に住む人に取って埼玉古墳の丸墓山は子どもの頃からの遊び場でした。行田は平な土地でしたので、山と言えば、199メートルの丸墓山しかありません。当時は、丸墓山の周りには、すぐに田んぼが迫っていて、田んぼを耕作する農家の人は、田んぼの面積を少しでも広げるために山の裾が2メートル近くの高さ迄削り取って耕作していました。子供には見上げるような高さになっていました。削り取られた面からは、何やら怪しげな指の骨のような形の物がたくさん出てきて子供たちの間で大騒ぎになったことがありました。大人に聞いても何であるか分かりませんでした。あれは一体なんだったのでしょうか。古墳の埋蔵物に一部だったのかも知れませんが。
丸墓山古墳は、直径105メートルあり、かつては日本で一番大きい円墳と言われていました。今は、奈良市の富雄丸山(とみおまるやま)古墳が直径110メートルの円墳ということで、日本一の座を譲ったことになっています。
丸墓山山頂から、西側の旧忍川を見る
上の写真は現在の写真で、丸墓山の頂上から、旧忍川を見たところです。旧忍川は、丸墓山を目指して西から真直ぐに進み、さらに丸墓山の周濠(まわりの池)の辺りで、急激に北に流れを変え、丸墓山に沿って東に進みます。
現在、丸墓山の周りは整備されて、周濠も南側が半分ほどが復元されています。北側の周濠は復元されていません。北側には、少しの緑地があり、その北側には、旧忍川があります。この部分の旧忍川は、最近の古墳の整備時に作られた堤防が作られています。
丸墓山の西側には二つの池があるが、この場所も周濠の一部(復元)だったと思われます。これらの状況を考えると、旧忍川は、丸墓山に向かって流れを進めて、丸墓山の周濠に繋がっていたと考えられられます。目的は農業用水のための溜池の機能を周濠に持たせたということです。下の写真は丸墓山の航空写真ですが、かつて周濠と旧忍川が一体であったことが良くわかる写真です。
現在の丸墓山の西側の旧忍川の流れ
旧忍川は、享保年間の1730年頃に開削されたものです。このときの水路は、それまでにあった古い小さな水路に沿って開削したものと思われる。現在の旧忍川には、水路のうねりがあり、これは、旧河川のうねりに沿って開削した結果ではないだろうか。
小針沼と旧忍川(大正時代の水路図)
行田には、かつて小針沼という沼があり、この地点より2km程下流に農業用水を提供していたと思われるが、これより上流の埼玉地区の農業用水の提供は、埼玉古墳が役立ったものと思われる。そのように見ると、現在の古墳の近くには、農業用水用の水路が多数見られる。古墳は、農業生産に大いに役立ったことが想像でき、古墳の開発にも農民の力が活用できたと思います。もっと言うと、古墳の開発で農業に必要な水の確保ができることになり、農民は古墳の開発に熱心に取り組んだのではないかと思う。
下の写真は昭和30年代の丸墓山古墳と稲荷山古墳です。この写真には、現在は前方後円墳に復元される前の稲荷山が映っていて興味深いです。稲荷山の頂上近くには、何か構造物が白く見えています。現在は、樹木が生い茂っていて丸墓山古墳と稲荷山古墳を同時に撮影するのは、難しくなっています。
昭和30年代の丸墓山古墳と稲荷山古墳
昭和30年代の旧忍川の一部の風景(右側の建物は現在の環境センター)
丸墓山古墳に埋葬されているのは、誰なのでしょうか。丸墓山古墳は6世紀の前半に作られたといわれています。これは、二子山古墳の作られた時期に近い時期です。
丸墓山の被埋葬者には、次の三つの説があります。
(1)聖徳太子の待臣蘇我調子麿が武蔵国造になり丸墓山に埋葬された。
(2)調子麿が生前の聖徳太子の希望で聖徳太子の遺骨を埼玉に運んで丸墓山に埋葬した。
(3)武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵(おき・おぎ)が武蔵国造の地位を争い殺され、丸墓山に埋葬された。
どれも確実なものはありませんが、個人的には、(1)であって欲しいと思います。いつの日か古墳が発掘されて何らかの証拠が出てくると良いですね。