第19巻4292

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも 独し思へば

 

うらうらに てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば

意味:

うららかに 照る春の日に ひばりは高く上がったが 私の心は悲しい 一人物思すれば

作者:

大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)この歌の後には、次のような意味の漢文が記されている。春の日はうららかにして、ウグイスがまさに鳴いている 痛み悲しむ心は 歌でなくては、はねかえすことができない。よってこの歌を作り、締め付けられた細ひも(心)をのばす(解放)するのである。ただし、この巻の中に作者の名前を言わないで、ただ年月、作られた場所、作られた縁起のみ書いたのは、みな大伴家持が作る歌詞である。作られた日は天平勝宝5年(749年)2月25日である。後半は、大伴家持の文章ではないかも知れないが、この時代(天平勝宝5年(753年)2月25日)大伴家持の屈折した心を反映した心境であったのかもしれない。

頭の冠を立てるヒバリ

 

第20巻4433

朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて 早帰り来む

 

あさなさな あがるひばりに なりてしか みやこにゆきて はやかへりこむ

意味:

毎朝毎朝 高く飛び上がるひばりに なりたいものだ もしなれたら都に行って 早く帰って来よう

作者:

安倍沙美麻呂(あべのさみまろ)天平勝宝7年(751年)3月3日 に防人を点検する天皇の使者(安倍沙美麻呂)と兵部省の官人が共に集って、宴を開いたときに作った歌。このとき安倍沙美麻呂は大伴家持と一緒に防人を点検したと思われる。安倍沙美麻呂はこのとき紫微大弼という官職になっている。紫微大弼は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治軍事機関の紫微中台の次官である。

 

第20巻4434

ひばり上がる 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく 

 

ひばりあがる はるへとさやに なりぬれば みやこもみえず かすみたなびく

意味:

ひばりが高く舞い 春にはっきり なったので 都は見えずに 霞がたなびいているよ

作者:

大伴宿祢家持(おおとものすくねやかもち)天平勝宝7年(751年)3月3日の歌であるから4433の安倍沙美麻呂と一緒に宴を開いたときに作った歌です。4433の「上がるひばりに」を「ひばりが上がる」と受けて作ったものです。

 

この歌の作られた日の数日前の天平勝宝7年(751年)2月29日に作られた歌で、埼玉の防人の歌として次の2首がある。

 

20巻4423

足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも

意味:

足柄の 御坂に立って 私が衣の袖を振れば 家にいる妻には はっきりと見えるだろう 

作者:

藤原部等母麻呂

 

20巻4424

色深く 背なが衣は 染めましを み坂給らば まさやかに見む

意味:

色濃く 胴長の衣は 染めたら良かった 御坂を通らせて頂いたら 本当にはっきり見えた出ようにね

作者:

妻物部刀自賣

 

日本書記の安閑天皇の元年に書かれている埼玉古墳群の所有者と考えられている笠原 直と同族の小杵との国造争いにおいて、笠原直は都の朝廷に助けを求め戦いに勝った。その結果、実際の戦いのために都から武蔵国に入った物部氏の力が武蔵国で強くなり、笠原 直は、物部 直と名前を変えて武蔵国造に起用された。埼玉で物部氏の力が強まったことを示す証拠として、万葉集のこの歌の妻の名前が物部刀自賣になっていることが上げられている。また、大里条理には、物部の里が出てくる。(森田 悌氏の説)。

冠の立っていないヒバリ