3.5.1 八幡山古墳
小学校の頃、親の実家が若小玉(わくだま)であった友達がいた。そこに良く遊びに行った。農家でありスイカを井戸で冷やし、その家族の人と何人かの友達とご馳走になったことがある。このとき驚くことに、みんなスイカと一緒にスイカの種も食べてしまうのです。傍で一緒に食べていて、ここではスイカの種は食べなくてはだめなのかと思い、スイカの種も食べた。このとき気持ち悪さは、大変なもので美味しいスイカもまったく美味しくなくなってしまった。
その後、池で魚釣りを行った。この魚釣りの餌は、ハエであった。ハエで魚釣りをした。ハエで魚が釣れることも学んだ。その後、ハエで魚を釣ったことはない。
この後、近くの「石山」というところに行った。実際、石山というのは山でなく、広い田んぼにたくさんの大きな石が転がったっり、積み重なったりした草むらでした。草が深く、全体の様子は伺えない。こんな場所に来たのも初めての経験でした。
今、考えてみると、あれが、八幡山古墳だったのだと思う。現在は、整然と積み重ねられている古墳の石がメチャメチャに崩れ、重なり合い、背の高い草の中に埋もれていたのでしょう。当時は、子供の遊び場というより、冒険のための場所だったようです。
八幡山古墳は、若小玉古墳群の一部と言われ、行田市の若小玉地区にあります。当時、草むらであった場所ですが、現在、工業団地として整備されて、まったく当時の様子は伺えない。バラバラになっていた古墳の石も整然と並び変えられ、工業団地の中で八幡山公園として整備されている。
行田には、かつて小針沼という大きな沼(現在の行田浄水場と近辺)があり、この沼を干拓するために市内にあったたくさんの古墳の土が使われたという。昭和9年のことです。こうして土が取られた古墳の石室がバラバラになって荒地に散在していたところが、子供たちの遊び場になっていたようです。だた、古墳の重要な部分は、保管されていて、それらが復元の時に利用されたということです。古墳の内部と外部を動画で撮影してみました。
八幡山古墳の内部と外部
千元大神は、富士山の神様で木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のことです。八幡大神は武運の神様です。
八幡山古墳は、奈良県明日香村の石舞台古墳によく似ていて関東の石舞台と呼ばれるということです。確かに、長く伸び石室の形は、明日香村の石舞台古墳とよく似ています。下の写真は、明日香村の石舞台古墳です。明日香村の石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と言われます。
石舞台古墳の玄室の長さ(写真)は7.6m*3.5mでそれ程大きくはないが、地下に石室に入るためのアプローチがあり、アプローチと石室で11.5m*2.2mになる。
石舞台古墳アプローチ
さすがに、官僚トップの大臣の蘇我馬子は、権勢が強大であったようで、石の大きさは、八幡山古墳の大きさとは、レベルの違う大きさの石が使われている。また、石室の高さも石舞台古墳は圧倒的です。しかし、石室の長さでは、八幡山古墳の16.7mは、石舞台古墳を上回っているようです。八幡山古墳の被葬者も北関東ではかなりの権勢を誇っていたことが伺えます。
蘇我馬子は敏達天皇即位時(572年)に大臣になり、蘇我蝦夷(えみし)、蘇我入鹿(いるか)と3代に渡って権勢を誇った。しかし中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らの乙巳の変(645年)により、入鹿が殺害され蘇我氏は滅んだ。
八幡山古墳は、埼玉古墳群とは別の若小玉古墳群に属している。若小玉古墳群は、現存する古墳の数は少ないが、かつてはかなりの数があったとされる。
古墳時代後期の安閑天皇の時代(534年?)に武蔵国造の乱(日本書記)が発生して、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ)と同族の小杵(おき)は、武蔵国造の地位を巡って争った。これを治めるために、笠原直使主は朝廷の力を借りて勝利した。その結果、横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として調停に献上した。しかし、これにとどまらず、朝廷から武蔵国に有力な部族の進出を許す結果になり、物部氏がこの若小玉古墳の場所を取得することになった。結果として、埼玉古墳側豪族は、若小玉古墳側豪族に権勢を奪われ、埼玉古墳群の古墳も徐々に小さくなってしまったのではないかという。
この八幡山古墳の被葬者は、物部連兄麻呂 (もののべのむらじえまろ)という説がある。物部連兄麻呂は、聖徳太子の舎人として活躍し、太子の没後、633年、武蔵国造に任じられた人物です。
八幡山古墳の被葬者
3.5.2 八幡山古墳の歌碑
八幡山古墳には、次の万葉歌碑がある。
万葉歌碑
碑の歌は次の通りです。
●万葉集巻第20 4423
足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも
あしがらの みさかにたして そでふらば いはなるいもは さやにみもかも
足柄の 御坂に立って 私が袖を振ったら 家にいる妻が はっきりと見てくれるだろうか
作者:藤原部等母麻呂(埼玉郡の防人の集団を統率する役人)
天平勝宝7年2月29日
●万葉集巻第20 4424
色深く 背なが衣は 染めましを み坂給らば まさやかに見む
いろぶかく せながころもは そめましを みさかたばらば まさやかにみむ
色濃く あなたの衣服は 染めましょうね 御坂に着いたならば はっきりと見えるように
作者:妻の物部刀自賣
天平勝宝7年2月29日
この歌は安曇三国が武蔵国防人部領使(さきもりことりづかい)、国司の第三等官が筑紫に赴任する途中で、防人が詠んだ和歌20首を大伴家持に伝えた中の歌です。20首の中の12首が『万葉集』に採用された。
この歌から防人を集めるためのシステムが分かります。
安曇三国は防人として徴発された兵士たちを連れて、筑紫(大宰府)まで送る武蔵国の役人です。安曇三国は、防人の歌を集めて難波(大阪)にいる大伴家持に届ける任務も持っています。大伴家持の役目は、防人の検校(防人を集める責任者)で兵部省の次官です。難波からは、防人達は船に乗って筑紫に向かうことになっています。安曇三国が大伴家持に持参した防人の歌は、埼玉郡以外に、都築郡(横浜市北部)、橘樹郡(川崎市と横浜市の北部)、荏原郡(品川の近く)豊島都(豊島、文教、荒川、北、板橋のあたり)、秩父郡の歌が含まれていて、それぞれの郡では夫婦が作成した歌が2首で1セットになっています。安曇三国は、武蔵国の広い範囲を担当していたことになる。
藤原部等母麻呂は、埼玉郡で集められた防人達のリーダです。この歌は藤原部等母麻呂とその妻の物部刀自賣が出発より少し前の天平勝宝7年2月29日に歌った歌です。よって、夫婦は、まだ、家にいる状態の歌ですから、「あなたの衣服は 色濃く染めましょうね」としました。「染めておけば良かった」というように訳すと2人が同じ場所にいるのに後悔していることになります。「染めましを」の「まし」と「を」をどう解釈するかですが、「まし」を〔ためらい・不安の念〕として「を」を〔強調〕の意味とすると詳細には、「色濃く染めておけばよいだろうかね。」と妻の気持ちからすると「見えるかどうか不安はありますができるだけ色濃く染めておきましょう」という意味にとれます。
防人として出発する夫の任期は3年ですが、3年後に生きて帰れるかどうか心配な状態です。そんな状態で後悔するような歌は歌えないでしょう。不安なことにはできるだけさけるように手を打つのがこのときの気持ちでしょう。
ここで歌っている御坂とは、どんな場所でしょうか。現在、箱根外輪山から延びる尾根上の静岡県小山町と神奈川県南足柄市との境界にある足柄峠が相当します。この道は古くから官道として旅人が往来していたといいます。また、この道からは御殿場の街並みの上に富士山が大きく広がる素晴らしい風景が見られます。埼玉郡からこの方向に見られる富士山とこの足柄峠の富士山が重ねられこのような歌になったのでしょう。藤原部等母麻呂と妻の物部刀自賣は大和から赴任して埼玉郡に来るときに、この風景を見ていたのかもしれませんね。