1.2章のスダジイ(巻②142)に有馬皇子の歌があったが、この章で取り上げられた歌は再度、有間皇子の歌です。しかも状況は、141番の場合と同様です。また、1.3章のクロマツ(巻③444)で大伴宿祢三中が歌っていたクロマツと同じクロマツの木を歌っています。

 

磐白の     (いはしろの)

浜松が枝を   (はままつがえ)

引き結び    (ひきむすび)

ま幸くあらば  (まさきくあらば)

また帰り見む  (またかへりみむ)

意味:

磐白(和歌山県みなべ町)の

浜の松の枝を

引っ張って結び付けた

無事であったならば

また、帰りに見ることができるだろう

作者:有間皇子(ありまのみこ)

この歌は、1.2章のスダジイ(巻②142)と同じ状況で赤兄により捕えられた有間皇子が白浜温泉にいる中大兄皇子の元へ護送されて行くときに歌った歌です。この歌の後、中大兄皇子のもとへ行き取り調べを受けた後、返される。帰りに浜松のむすび松を有間皇子は見ることができ安心したものと思われます。しかし、その後、藤白坂(和歌山県海南市)で、中大兄皇子により遣わされた丹比小沢連国襲(たじひのおざわのむらじくにそ)によって絞首にされてしまった。

それでは、中大兄皇子と有間皇子の関係はどのようなものだったのでしょうか。

中大兄皇子は、舒明天皇の夫の皇極天皇の長男でした。641年に舒明天皇がなくなった後の天皇が決まらないので、舒明天皇の后が35代天皇(皇極天皇)になった。乙巳の変が645年6月に起こり、中大兄皇子に蘇我入鹿が殺される(645年)。この年、皇極天皇は譲位して中大兄皇子に天皇位を勧めたが中大兄皇子は辞退する。中大兄皇子は、殺人者であることが明確であるし、当時は皇太子のまま政治を行うのが、聖徳太子などの例でも普通であったことが原因と思われる。そこで、皇極天皇の兄を天皇(幸徳天皇36代)(645年6月)にする。幸徳天皇の皇后には、中大兄皇子の妹(間人皇女)(645年7月)がなった。そして幸徳天皇は宮殿を難波長柄豊碕宮(大阪)(645年12月)に移す。側近や中大兄皇子も大阪に移転するが、次第に、幸徳天皇と中大兄皇子の意見が異なるようになり、653年に中大兄皇子は都を大和に戻すことを要求するが、幸徳天皇は許さなかった。中大兄皇子は、皇極前天皇と幸徳天皇の皇后(間人)、大海皇子を連れて倭飛鳥河辺行宮に行ってしました。654年になると、幸徳天皇は失意の中で崩御する。655年元皇極天皇が、斉明天皇として即位した。この状態で、次の天皇になる可能性のある幸徳天皇の子の有間皇子を邪魔と考えた。これが殺意の原因と考えられる。

645年には、中大兄皇子は、舒明天皇の第一皇子である古人大兄皇子も殺している。このとき中大兄皇子の皇位継承順位は2番目で、古人大兄皇子が、舒明天皇の皇位継承順位が1番だったのです。

このほかに中大兄皇子に、直接、間接に殺された人は、蘇我入鹿、有馬皇子います。中大兄皇子に逆らうことに、皇極前天皇、幸徳天皇の皇后(間人)、大海皇子も命の危険を感じていたと思います。

天智天皇(中大兄皇子)の死に臨んで、皇太子の大海皇子も次の天皇の位を天智天皇の子の大友皇子に譲って、急いで吉野宮に逃げたのも同じ理由からです。