昨日こそ (きのふこそ)
君はありしか (きみはありしか)
思はぬに (おもはぬに)
浜松の上に (はままつのうへに)
雲にたなびく (くもにたなびく)
意味:
昨日は
君は無事でいたのに
思いもよらなかったが
難波の浜の松の上に
火葬の煙となってたなびいている
作者:判官 大伴宿祢三中(じょう おおとも の みなか)
この歌は、第3巻442の長歌の反歌として歌われたものです。反歌とは長歌のあとに添えられている短歌で1から数首が付けられてことが多く、その長歌の要約や補足を歌にしたものです。よって、反歌の意味は、前にある長歌を見ると一層意味がはっきりする。そこで、この歌の前の長歌について確認しておこう。
この長歌は大伴宿禰三中が摂津の国の班田(はんでん、公民に口分田を分け与え租税を確保する役所)の文書の書写・補修などを役目とした下級官吏の丈部竜麻呂(はせべのたつまろ)が自ら首をくくって死んだときに作られた歌です。大伴宿禰三中は班田の判官(三等官)で竜麻呂の上司。この歌は挽歌として分類されているように、竜麻呂の死を悲しむ三中や母の気持ちが切々と歌われている。
第3巻443
この長歌には、次のような題詞が付いている。
「天平元年に、摂津の国の公民に口分田を分かち与え租税を取る役所の史生の丈部竜麻呂(はせのたつまろ)が自ら首をくくって死んだときに、大伴宿祢三中が作る歌」
自殺をした丈部竜麻呂はどんな人だったのか。長歌の内容は次の通りです。
原文:
1 天雲の 向伏す国の
(あまくもの むかぶすくにの)
2 ますらをと 言はれし人は
(ますらをと いはれしひとは)
3 天皇の 神の御門に
(すめろきの かみのみかどに)
4 外の重に 立ち侍ひ
(とのへに たちさもらひ)
5 内の重に 仕へ奉りて
(うちのへに つかへまつりて)
6 玉葛 いや遠長く
(たまかづら いやとほながく)
7 祖の名も 継ぎ行くものと
(おやのなも つぎゆくものと)
8 母父に 妻に子どもに
(おもちちに つまにこどもに)
9 語らひて 立ちにし日より
(かたらひて たちにしひより)
10 たらちねの 母の命は
(たらちねの ははのみことは)
11 斎瓮を 前に据ゑ置きて
(いはひへを まへにすゑおきて)
12 片手には 木綿取り持ち
(かたてには ゆふとりもち)
13 片手には 和栲奉り
(かたてには にきたへまつり)
14 平けく ま幸くいませと
(たひらけく まさきくいませと)
15 天地の 神を祈ひ祷み
(あめつちの かみをこひのみ)
16 いかにあらむ 年月日にか
(いかにあらむ としつきひにか)
17 つつじ花 にほへる君が
(つつじはな にほへるきみが)
18 にほ鳥の なづさひ来むと
(にほとりの なづさひこむと)
19 立ちて居て 待ちけむ人は
(たちてゐて まちけむひとは)
20 大君の 命畏み
(おほきみの みことかしこみ)
21 おしてる 難波の国に
(おしてる なにはのくにに)
22 あらたまの 年経るまでに
(あらたまの としふるまでに)
23 白栲の 衣も干さず
(しろたへの ころももほさず)
24 朝夕に ありつる君は
(あさよひに ありつるきみは)
25 いかさまに 思ひいませか
(いかさまに おもひいませか)
26 うつせみの 惜しきこの世を
(うつせみの をしきこのよを)
27 露霜の 置きて去にけむ 時にあらずして
(つゆしもの おきていにけむ ときにあらずして)
意味:
1 天雲が はるか向こうに横たわる国の
2 立派な男と 言われたあなたは
3 天皇の 宮殿の
4 外郭では 立ってお仕え申し上げ
5 宮殿の内側では 上の人に奉仕する
6 美しい葛のように たいへん遠く長く続く
7 祖先の名を 継ぎ行くものと
8 母父に 妻に子どもに
9 語った 官職についた日より
10 君を育てあげた 母は
11 神酒 (みき) を盛るための素焼きのつぼを 前に置いて
12 片手には 木綿(ゆう、コウゾの皮を蒸し細かく裂く)で作った白い紙を取り付けた榊(さかき)の木を取り持ち
13 片手には やわらかい布を奉り
14 穏やかに 無事でありなさいと
15 天地の 神に祈り
16 どのようになることか いつの日にか
17 つつじ花のように 香しい君が
18 カイツブリが 水に浮かび漂って来るかと
19 立ったり座ったして 待っていた君は
20 天皇の 命令に従って
21 一面に照り光る 難波の国に
22 新年が 何度も過ぎて行き
23 白い布の 衣も着替える余裕もなく
24 朝夕に 頑張ってきた君は
25 どのように 思いますか
26 はかない 大切なものを失う耐え難いこの世を
27 露霜のごとく 大切なものを残して死んでしまった まだ若いのに
自殺をした丈部竜麻呂はどんな人だったのか。この文章から分ることで注目するべきことは、「天皇の 宮殿の 外郭では 立ってお仕え申し上げ 宮殿の内側では 上の人に奉仕する」いう部分であり、丈部氏の仕事が宮殿の警護と上位者への奉仕をしていたことが伺える。この宮殿の警護には、「杖」を使っていたが、この文字が省略されて丈部の「丈」になったと考えられるという。
稲荷山古墳の鉄剣の文章には、「其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る」とあり、「ヲワケは、杖の刀を持った人となって宮殿の上位人に奉仕した」ことが分る。このことから考えるとヲワケの氏は丈部氏となり、埼玉古墳の持ち主の名前も「丈部(はせべ、はせつかさべ)」という仮定が成り立つ。いずれにしても、この歌は、埼玉古墳群の稲荷山古墳出土鉄剣との関係が有りそうで注目されます。
ちなみに、この歌が歌われたのは、天平元年(729年)、鉄剣が作られたのは、辛亥年(471年または531年)で大分時間が離れているが、一定の政治的地位や官職・職務に就く資格と、それを世襲されるので、時代が変わっても変わらないことが多い。
丈部という名前は、東海、東国、東北に多いという。丈部直不破麻呂(はせつかべ のあたいふわまろ)は武蔵国足立郡出身で武蔵国造、764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱で活躍という。関係がありそうですね。
また、埼玉古墳群の将軍山古墳には、房州石という千葉県房総半島産の砂質凝灰岩(鋸山の石が有名)が使われていて、古墳の持ち主の親戚が房州にいたことが、予想されているが、丈部直牛養(はせつかべ のあたいうしかい)は下総国印旛郡の郡司の最高の地位で関係が期待される。
参考資料: 忍川の自然に親しむ会ホームページ
Wikipedia
関連する445番の反歌を次に記載する。
いつしかと 待つらむ妹に 玉梓の 言だに告げず 去にし君かも
いつしかと まつらむいもに たまづさの ことだにつげず いにしきみかも
いつになったらと 待っているであろう妻に 消息の 手紙さえ告げず 別れてしまった君かなあ
クロマツ:
クロマツは主として、海の近くに自生するマツで、木肌が黒くなっているので良くわかる。これに対して赤松は、内陸に自生して、木肌が赤茶色になる。さきたま緑道では、クロマツの歌が二つ歌われてる。