第1巻50

1   やすみしし 我が大君            やすみしし わがおおきみ

2   高照らす 日の皇子             たかてらす ひのみこ

3   荒栲の 藤原が上に             あらたへの ふぢはらがうへに

4   食す国を 見したまはむと          をすくにを めしたまはむと

5   みあらかは 高知らさむと          みあらかは たかしらさむと

6   神ながら 思ほすなへに           かむながら おもほすなへに

7   天地も 寄りてあれこそ           あめつちも よりてあれこそ

8   石走る 近江の国の             いはばしる あふみのくにの

9   衣手の 田上山の              ころもでの たなかみやまの

10  真木さく 桧のつまでを           まきさく ひのつまでを

11  もののふの 八十宇治川に          もののふの やそうぢがはに

12  玉藻なす 浮かべ流せれ           たまもなす うかべながせれ

13  其を取ると 騒く御民も           そをとると さわくみたみも

14  家忘れ 身もたな知らず           いへわすれ みもたなしらず

15  鴨じもの 水に浮き居て           かもじもの みづにうきゐて

16  我が作る 日の御門に            わがつくる ひのみかどに

17  知らぬ国 寄し巨勢道より          しらぬくに よしこせぢより

18  我が国は 常世にならむ           わがくには とこよにならむ

19  図負へる くすしき亀も           あやおへる くすしきかめも

20  新代と 泉の川に              あらたよと いづみのかはに

21  持ち越せる 真木のつまでを        もちこせる まきのつまでを

22  百足らず 筏に作り             ももたらず いかだにつくり

23  泝すらむ いそはく見れば 神ながらにあらし のぼすらむ いそはくみれば かむながらにあらし

意味:

1   国の隅々までお治めになっている 我々の天皇

2   天高く照る 日の皇子が

3   荒れ布のような 藤原の地に

4   天皇の治める国を 統治するために

5   貴人の御所を 立派に造り営みなさろうと

6   神そのものとして 思うとともに

7   天の神も地の神も 寄って協力する

8   水が石に当たってしぶきを上げる 近江の国の    

9   衣手の 田上山(大津市の南、古代の材木の切出地)で

10  木を裂いて作った 粗削りのヒノキの角材を

11  武人たちが守る 八十宇治川に

12  美しい海藻のように 浮かべて流す

13  それを取ろうと 労働奉仕の天皇の民たちは

14  家を忘れ 自分のこともかえりみず

15  鴨のように 水に浮かんで

16  自分たちが作る 天皇がいる宮殿に 

17  知らぬ国の人が 巨勢道を通って来る

18  我が国は 永遠の国である

19  瑞兆(めでたい兆候)を甲に描いた 神秘的な亀も

20  新しい時代を祝して現れるだろう 泉の川(木津川の古称)に

21  持ち越んだ 良質の建材となる角材を

22  百に足りない数の 材木を筏(いかだ)にして

23  木津川を遡らせる 民たちが仕事に励んでいることを見れば 天皇が神そのものであるからに違いない

作者:

この歌のタイトルは「藤原の宮の役民(えきみん)の作る歌」となっている。役民とは律令制下で、労役をする民である。この歌は693年、持統天皇の8月ごろの歌と万葉集に記載されている。藤原京の着工は690年、藤原京への遷都は、一説によりと694年12月という。この歌は興味深いので歌に刻まれている時代背景を整理しておこうと思います。

9行目の田上山というのは、大津市の南にある山で、古代には大木が生えていた場所で宮殿や寺を作るために大量に樹木を伐採して琵琶湖を通じて奈良方面に木材を送っていたところである。ここで「衣手の」枕ことばは適切な訳がなくそのままにした。大量に樹木を伐採したために田上山や周辺は禿山となり、山から大量の土砂が琵琶湖に向かって流れ出した。この土砂は下流の滋賀県草津市の草津川の川底を押上げて、草津川は天井川となり、現在でも川底が平地よりも高い位置にある。天井川が形成されたのは、この伐採の1000年以上後の江戸後期からで、土砂の流失と土木工事による土手の積み上げの結果である。下の写真は、滋賀県草津市の追分(旧東海道と旧中山道が分岐する所、ここで右へ曲がるのが東海道、トンネルの中に進むのが旧中山道)であるが、このトンネルは川底の下に掘られたトンネルであり、トンネルの上が川の水路になっている。東海道線も草津市では川を超えるのに鉄橋でなくトンネルを掘っている。この場所は、歌川広重の木曽街道六拾九次之内の草津追分でも有名な場所である。琵琶湖に流れた大量の土砂でも琵琶湖が埋まってしまうことはないらしい。なぜなら、琵琶湖の底は、いつも沈んでいるということである。護岸工事の進んだ現在の大きな川は、今後は、天井川化する危険性がある。天井川化した草津川は、氾濫した場合の危険性が高いため現在は廃川として、上流から別の川を掘って、新しい川を通じて琵琶湖に水を流している。

天井川となっている草津川

歌の中で田上山で切られて琵琶湖に流された材木は、瀬田川を通じて下流に進む。やがて川の名前は宇治川に変わる。このまま進むと淀川に合流して大阪湾に流れてしまい奈良方面には送れない。そこで、宇治川から木津川に流すというより、木津川の流れに逆らって木津川の上流に運ぶ。木津川からは流れに逆らって進むために能率が悪いので、これを調整するために宇治川と木津川の間に巨椋池というバッファがあった。木津川を遡った木材は、現在の木津川市の当たりで陸揚げする。川が奈良方面にはないのである。ここから奈良までなら10km、藤原京までなら25km程は陸送することになる。この作業は役民が当たったというが大変な作業であったには違いない。

11行目の「もののふの 八十宇治川に」を枕ことばも含めて正確に訳そうとすると、困難が伴う。「もののふの」も「八十」も枕ことばなので省略して「宇治川」だけにしても意味は通じるのだが、それでは深みが欠ける。古く水運を守っていたのは物部氏であり、水運の守りには武力が必要であった。現在「もののふ」の意味は武人であるが「もののふ」の語源は物部であるという説もある。物部氏は当時重要であった大阪湾と桜井市近辺を結ぶ大和川の水運を守っていた。こんなことより「もののふ」が重要な河川の枕ことばになると考える。「八十」は「たくさんの」という意味ですが、宇治川の流れが複雑で複数の川に分かれていたとする説がある。現に宇治川は、流れがが複雑である。流れの道筋から水の出口を求めてあちらこちらに進んだ様子がうかがえる。

16行目から17行目の「我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より」の部分も分かりにくい。この意味は「我々の作る 天皇の宮殿に 外国の人が 巨勢道から来る」と訳せる。外国の人が 巨勢道から来るとはどんなわけか。これを理解する助けは、日本書紀の神宮皇后の5年の部分に葛城襲津彦は日本に来ていた新羅の人質をだまされて逃がしてしまった。そこで新羅に行って戦い城を攻め落として帰った。このときの捕虜は連れて帰り、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)の4つの村に住まわせてこれが漢人の祖先となったとある。この4つの村は、御所市や葛城市に場所の存在が推定されている。これらの場所は巨勢道の近くである。巨勢道とは藤原京の南西部で山の近くで海から来る外国人の通る道とは思えないが、そこに外国人の集団(技術を持っている)が住んでいたとなればこのことは理解できる。

19行目の「図負へる くすしき亀も」は甲羅にめでたい模様のある神秘的な亀が現れることを期待していることを表現している。この時代珍しいものが皇室に献上され新しい元号を採用することが頻繁に行われた。改元された献上品には鳥、亀、金、銅などが多かったが亀が特に多かった。亀の献上によって改元された年号は次の通りです。

    霊亀   715年    瑞亀を献上

    神亀   724年    白亀を献上

    天平   729年    甲羅に「天王貴平知百年」と文のある亀を献上

    宝亀   770年    白亀を献上

第1巻64

葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ

あしへゆく かものはがひに しもふりて さむきゆふへは やまとしおもほゆ

意味: 

葦の茂っている水辺を行く 鴨の背中に 霜が降っいる このように寒い夕べは 大和が思われる

作者:

志貴皇子(しきのみこ)天智天皇の子であっが、壬申の乱で天智天皇系から天武天皇系に移ったために天皇とは無縁で和歌等の道に進んた。しかし、薨去から50年以上後に志貴皇子の第6子が光仁天皇に即位した。この結果、志貴皇子の系統が現在の天皇まで続くことになった。「羽交ひ」とは「羽交い絞め」の羽交いであり、両羽の付け根の間のことです。

カルガモ

第3巻257

1   天降りつく 天の香具山       あもりつく あめのかぐやま
2   霞立つ 春に至れば         
かすみたつ はるにいたれば
3   松風に 池波立ちて         
まつかぜに いけなみたちて
4   桜花 木の暗茂に          
さくらばな このくれしげに
5   沖辺には 鴨妻呼ばひ        
おきへには かもつまよばひ
6   辺つ辺に あぢ群騒き        
へつへに あぢむらさわき
7   ももしきの 大宮人の        
ももしきの おほみやひとの
8   退り出て 遊ぶ船には        
まかりでて あそぶふねには
9   楫棹も なくて寂しも 漕ぐ人なしに 
かぢさをも なくてさぶしも こぐひとなしに

意味:

1   天上から降ってきたという 天の香久山(奈良県橿原市の大和三山の一つ)

2   霞が立ち込める 春になれば

3   松風に 池の波が立って

4   桜の花は 木の下が暗い所にも咲き

5   沖のほうでは 鴨が妻を呼んで鳴く

6   岸に近い方では アジガモ(トモエガモ)の群れが騒ぎ

7   大建築の 大宮に使える人びとが

8   大宮を下がって 遊ぶ船には

9   楫(かじ)も棹(さお)も なくて寂しい 漕ぐ人もないので

 作者:

鴨 君足人(かものきみたりびと)の作で香久山の歌というタイトルがついている。この歌は、持統11(697)年、高市皇子の香久山の宮周辺の荒廃を嘆く歌と思われる。香久山の西の池の横に高市皇子の宮殿があった。高市皇子はこの歌の前年696年に薨去している。高市皇子は壬申の乱で美濃国不破(関ケ原近く)の戦いで全権を委ねられ活躍した。トモエガモ参考ページ

    https://www.google.co.jp/search?site=imghp&tbm=isch&source=hp&biw=1280&bih=860&q=トモエガモ

トモエガモは絶滅危惧種に指定されている。

第3巻258

人漕がず あらくもしるし 潜きする 鴛鴦とたかべと 船の上に棲む

ひとこがず あらくもしるし かづきする をしとたかべと ふねのうへにすむ

意味:

人が船を漕がないのは 明らかである 水に潜る おしどりや小鴨が 船の上に住んでいる

作者:

鴨 君足人(かものきみたりびと)の歌で、257の歌の反歌である。高市皇子の死で人が漕がなくなった状況が良く分かる。この歌に出てくる「たかべ」はコガモの古名である。257の長歌に対する反歌として次の259番の歌もある。池の船だけでなく、香久山までも荒れてしまったことが分かる。

第3巻259

いつの間も 神さびけるか 香具山の 桙杉の本に 苔生すまでに

いつのまも かむさびけるか かぐやまの ほこすぎのもとに こけむすまでに

意味:

いつの間にか 古びて神々しくなった 香久山の 鉾杉の根元に 苔がむすまでに

コガモの雌

第3巻260

1   天降りつく 神の香具山        あもりつく かみのかぐやま
2   うち靡く 春さり来れば        
うちなびく はるさりくれば
3   桜花 木の暗茂に           さくらばな このくれしげに
4   松風に 池波立ち           
まつかぜに いけなみたち
5   辺つ辺には あぢ群騒き        
へつへには あぢむらさわき
6   沖辺には 鴨妻呼ばひ         
おきへには かもつまよばひ
7   ももしきの 大宮人の         
ももしきの おおみやびとの
8   退り出て 漕ぎける船は        
まかりでて こぎけるふねは
9   棹楫も なくて寂しも 漕がむと思へど 
さをかぢも なくてさぶしも こがむとおもえど

意味:

1   天上から降ってきたという 神の香久山(奈良県橿原市の大和三山の一つ)

2   茂った草木がなびく 春になると

3   桜の花は 木の下が暗い所にも咲き

4   松風に 池の波が立って

5   岸に近い方では アジガモ(トモエガモ)の群れが騒ぎ

6   沖のほうでは 鴨が妻を呼んで鳴く

7   大建築の 大宮に使える人びとが

8   大宮を下がって 遊ぶ船には

9   楫(かじ)も棹(さお)も なくて寂しい 漕ごうと思っても

作者:

この歌の作者は257と同じと思われる。内容は257とほとんど同じであるが、合理的な形に変更されています。257を作ったあとで修正したものと思われます。万葉集の中には、このように改善したと思われる歌が時々あります。

第3巻375

吉野なる 菜摘の川の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山蔭にして

よしのなる なつみのかはの かはよどに かもぞなくなる やまかげにして

意味:

吉野にある 菜摘(吉野宮滝の東方に菜摘という地名がある)の吉野川の 流れのよどんだ所に 鴨が鳴く 山の

影の場所の

作者:

湯原 王(ゆはらのおおきみ、志貴皇子の子)が吉野で作成した歌というタイトルがついている。

オナガガモ

第3巻390

軽の池の 浦廻行き 廻る鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに

かるのいけの うらみゆきみる かもすらに たまものうへに ひとりねなくに

意味:

軽の池の 水ぎわを泳ぎ まわる鴨ですら 玉藻の上で 一人で寝ることはないのにね

作者:

紀皇女(きのひめみこ、天武天皇の皇女)の歌。「比喩歌」というタイトルが付けられている。軽の池は、奈良県橿原市にあった池。鴨でさえも一人で寝ることはないのにと自分の寂しさを比喩的に表現している。玉藻は美しい藻の意味で、自分の寝ている美しい寝具も表現している。

第3巻416

 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

ももづたふ いはれのいけに なくかもを けふのみみてや くもがくりなむ

意味: 

古くから伝わる 磐余の池に 鳴く鴨を 今日が見おさめで 私はこの後きっと死ぬのだろう

作者:

大津皇子(おおつのみこ、天武天皇の第3子、母は鵜野讃良皇女(後の持統天皇)の姉の大田皇女)が謀反の罪で捉えられた後で作った歌。天武天皇が崩御すると、親友の川島皇子の密告により大津皇子は謀反の疑いで捉えられ、翌日、磐余にある自邸で自害した。大津皇子の謀反については余りにも草壁皇子側に都合の良いタイミングでの発覚であり疑問も多い。ただこの結果草壁皇子が天皇になったかと言うとそうもいかず母親の鵜野讃良皇女が持統天皇になった。草壁皇子は2年後に亡くなっている。死因は不明で議論がある。これと類似の謀反の計画の発覚では少し前の時代に有馬皇子の謀反があり、大津皇子の場合と同様に権力側に都合が良すぎるように思う。有馬皇子も万葉集に謀反発覚後の歌を残している。

有馬皇子が謀反の罪で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のいた白浜温泉に護送される旅の途中で読んだ二つ歌の歌碑が埼玉緑道にある。

  

            死刑を予感している有馬皇子が読んだ歌

上の二つの謀反事件と比較できる事件として、上の二つの事件より後の時代の「長屋王の変」がある。長屋王は妖術など使い聖武天皇の生まれたばかりの子供を殺し国家を悪い方へ導いているなどとして藤原氏に邸宅を取り込まれている中で自殺した。この事件も藤原氏の陰謀と言われる。万葉集には、長屋王の歌が5つ残っている。

第3巻466

1    我がやどに 花ぞ咲きたる        わがやどに はなぞさきたる
2    そを見れど 心もゆかず         
そをみれど こころもゆかず
3    はしきやし 妹がありせば        
はしきやし いもがありせば
4    水鴨なす ふたり並び居         
みかもなす ふたりならびゐ
5    手折りても 見せましものを       
たをりても みせましものを
6    うつせみの 借れる身なれば       
うつせみの かれるみなれば
7    露霜の 消ぬるがごとく         
つゆしもの けぬるがごとく
8    あしひきの 山道をさして        
あしひきの やまぢをさして
9    入日なす 隠りにしかば         
いりひなす かくりにしかば
10   そこ思ふに 胸こそ痛き         
そこもふに むねこそいたき
11   言ひもえず 名づけも知らず       
いひもえず なづけもしらず
12   跡もなき 世間にあれば 為むすべもなし 
あともなき よのなかにあれば せむすべもなし

意味:

1   私の家に なでしこの(第3巻464のなでしこを受けている、未記載)花が咲いた          

2   それを見ても 心が晴れない

3   愛しい 妻が生きていたら

4   水に浮かぶ鴨のように 二人で並んで

5   その花を手で折って 妻に見せるのだが

6   この世に生きる 仮の身ならば(肉体は仮の存在とする仏教思想の表現)

7   露や霜の 消えるように

8   足を引いてあえぎつつ登る 山道を目指して

9   入日のように 隠れて(死んで)しまった

10  そのことを思うと 胸が痛い

11  言葉も出ない 言う言葉も知らない

12  亡くなった後は跡形もなくなる 無常の世の中なので 何とすることもできない

作者:

大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち、奈良時代の貴族で大納言 大伴旅人の子、万葉集の1割以上が家持の歌である。特に第17巻から第20巻は家持の歌日記を資料としているという。)が天平11(739)年の6月に亡妾を悲しみて悲傷しみて作る歌という部分に462から477まで16首の歌が記録されている。この歌は家持の最初の長歌である。

第4巻485

   神代より 生れ継ぎ来れば   かむよより あれつぎくれば
2   人さはに 国には満ちて    ひとさはに くににはみちて
3   あぢ群の 通ひは行けど    あぢむらの かよひはゆけど
4   吾が恋ふる 君にしあらねば  あがこふる きみにしあらねば
5   昼は 日の暮るるまで     ひるは ひのくるるまで
6   夜は 夜の明くる極み     よるは よのあくるきはみ
7   思ひつつ 寐も寝かてにと   おもひつつ  いもねかてにと
8   明かしつらくも 長きこの夜を あかしつらくも ながきこのよを

意味:

1   神代の昔から 人は生まれ継いで来ているので

2   人がたくさん 国に満ちて

3   トモエガモの群れのように 人は通い行くが

4   私が恋する 君はいないのだから

5   昼は 日の暮れるまで  

6   夜は 夜が明けるまで

7   物思いして 寐ても寝ることができず

8   明かしてしまった 長いこの夜を

作者:

岡本天皇(をかもとのすめらみこと)、この歌は岡本天皇の御製というタイトルが付いている。しかし、あとがきには、高市の岡本の宮、後の岡本の宮の二代二帝おのおのに同じ名前の宮があり別ものである。岡本天皇いうのは、今だ誰のことを言っているのかつまびらでない、という説明がある。具体的には、舒明天皇の岡本宮と斉明天皇の後岡本宮である。よって、このいづれかの天皇と思われるがどちらかは分からない。この歌は形式からすると終わり方が37375777という変則的な形式になっている。

舒明天皇の歌としては、万葉集の2番目の歌である次の歌が非常に有名で、小学校の頃には学んだような気がする。この歌も舒明天皇が高市の岡本の宮に居た頃に作った歌という説明がある。なお、舒明天皇は、天智天皇(中大兄皇子、なかのおおえのおうじ)、天武天皇の父親である。

      大和 (やまと) には 群山 (むらやま )あれど
とりよろふ 天 (あめ) の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原 (くにはら) は 煙 (けぶり) 立ち立つ
海原 (うなはら) は 鴎 (かまめ) 立ち立つ
美 (うま) し国ぞ 蜻蛉島 (あきつしま)  大和 (やまと) の国は