磯の上に      (いそのうへに)

生ふる馬酔木を   (おふるあしびを)

手折らめど     (たをらめど)

見すべき君が    (みすべききみが)

在りと言はなくに  (ありといはなくに)

意味:

岩の多い海岸に

生えている馬酔木の花を

手折って見ても

会いたい君が

いるわけではないのに

作者:大伯皇女(おおくのひめみこ)

万葉歌碑には、作者は、大来皇女となっていますが、大伯皇女の誤りです。

この歌の題詞には、次の記述があります。「大津皇子の屍(しかばね)を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の悲しみて作る歌」大伯皇女と大津皇子は、恋人ではなく兄弟です。どんなことがあったのでしょうか。

大津皇子と大伯皇女の父親は天武天皇です。母親は、大田皇女です。太田皇女(姉)と鸕野讃良皇女(持統天皇)、妹)は姉妹で父親は、天智天皇です。この太田皇女と鸕野讃良皇女(持統天皇)は二人とも天武天皇の元に嫁ぎました。そして太田皇女は、大伯皇女と大津皇子を生む。大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳の時に母の太田皇女は亡くなる。その後2人は天智天皇に引き取られて、天武天皇の関係者の元で育てられる。一方、鸕野讃良皇女は天武天皇の子、草壁皇子を生む。ここで、次の時代の天皇の可能性として、大津皇子と草壁皇子が考えられることになる。ただ、大津皇子の方が優秀でまわりの支持もあり、鸕野讃良皇女としては、大津皇子の存在を邪魔に感じる。天武天皇が686年10月1日に崩御する。翌月には謀反の罪で大津皇子が処刑されてしまう。そして持統天皇が690年2月14日に即位する。草壁皇子は若く天皇にはなれないので、鸕野讃良皇女が持統天皇として即位する。

大津皇子の謀反の内容については万葉集以外の記録がなく、具体的なことは分っていない。大伯皇女は、斎宮の任についていたが、弟の大津皇子の謀反の罪により、斎宮を解任されて、大和に帰るときに、弟の大津皇子を偲んでこの歌を作った。身寄りもなくなり一人旅する寂しさが良く感じられます。