山吹の(やまぶきの)

立ちよそひたる(たちよそひたる)

山清水(やましみづ)

汲み行かめどに(くみにゆかめど)

道の知らなく(みちのしらなく)

意味:

山吹の花が

美しく立ち飾っている

山の清水のあるところに

水を汲みに行きたいが

私は行くための道を知らない

作者:高市皇子

この歌には、「十市皇女が亡くなったとき、高市皇子が作った歌」という題詞が付いていて、日本書紀の天武天皇の7年の夏4月1日に十市皇女が宮中で急死したことが書かれている。

この部分の日本書記の記述を確認すると次のようになっている。

夏4月1日に、天武天皇が斎宮に行幸されようとして、占いをしたら7日が良いということになった。よって、7日の午前4時ごろに先発隊が出発した後、たくさんの官人が列になり、神輿には蓋をして出発しようとしたとき、十市皇女が急病で宮中でなくなった。このため天皇の行列は停止し、行幸はできなかった。神々の祭りもなくなった。

高市皇子と十市皇女の関係

十市皇女は天武天皇の長女で天智天皇の皇子の大友皇子(弘文天皇)の正妃になる。しかし、壬申の乱では、十市皇女の父親の天武天皇が、大友皇子と戦うことになる。高市皇子は、天武天皇の長男です。高市皇子は、壬申の乱が起こった時には、先頭に立って戦い大友皇子に対する戦いを勝利に導いた最大の功労者でした。高市皇子の母親が、福岡県宗像地方の豪族の宗形徳善の娘の尼子娘で皇女でなかったために、高市皇子は天皇になることはできなかったが、持統天皇の元で太政大臣に任命され活躍した。十市皇女は、壬申の乱の後、天智天皇の戻っていたが、不安定で難しい立場であったと考えられる。この歌から分る高市皇子の十市皇女に対する気持ちは、並みならむものがあり、十市皇女は、高市皇子の妻だった、または、恋人であった、などの説もある。ただ、高市皇子と十市皇女の間の気持ちは複雑なものであったに違いない。十市皇女の急な死には自殺説や暗殺説もある。

高市皇子は、十市皇女の死の挽歌として3首を作っているが、残りの2首も十市皇女に対する情熱的な気持ちが歌われています。