家なれば    (いへなれば)

笥に盛る飯を  (けにもるいひを)

草枕      (くさまくら)

旅にしあれば  (たびにしあれば)

椎の葉に盛る  (しひのはにもる)

意味:

家にいれば

容器に盛る飯(めし)を

草枕の

旅の途中なので

椎の葉に盛る

作者:有間皇子(ありまのみこ)

この歌の意味は、上に訳したように、「家では、食器にごはんを盛って食べているが、今は旅の途中で食器がないので、スタジイの葉に盛って食べる」という意味です。一つ疑問になるのは、スタジイの葉は、幅2cm*長さ6cm程度の小さなもので、ご飯が盛れるか、ということがあり、これに対し、有間皇子が食べるごはんでなく神に捧げるご飯ではないかという説がある。この旅の日は、日本書紀の斉明天皇の章に詳しいが斉明天皇の4年11月10日(658年12月10日)または、前後の日と思われる。既に冬に入っており、ご飯を盛るのに相応しい広葉樹は、ほとんど葉落してしまいスタジイのような常緑の小さな葉しか手に入らなかったと考えられる。スタジイの木は数が多く、この時期でも簡単に入手できたでしょう。スタジイの葉は混んでいるので、枝を切ってくれば、おにぎりを乗せるのは可能です。

では、この旅はどんな旅だったのか。有間皇子は謀反の罪を問われ、時の権力者の皇太子(中大兄皇子)が行幸している紀の湯(白浜温泉)に護送される旅でした。また、この歌の前後には4首の有馬皇子の歌があり、この4首の歌全体に対して「挽歌」という題詞が付けられている。挽歌とは、死者をいたむ詩歌という意味です。

この歌の有間皇子の事情は日本書記に記載があるので、そこから簡単に記載する。

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有間皇子は、自分の立場が危険なことを悟って狂気を装っていたが、あるとき紀州の白浜温泉に行って病気療養をして来た。結果、非常に体が良くなったといった。斉明天皇は、これを聞いて喜んで、自分も行きたいと思った。

冬になり、天皇は、周りのものを連れて、白浜温泉に行幸した。

留守を守る役目の蘇我赤兄が有馬皇子に対し、「天皇の政治に失政があると」と告げて失政の例を告げた。有間皇子は、赤兄が自分に好意を持っていることを知って「私が生涯で初めて兵を用いる時が来た」といった。

この後、有間皇子は、赤兄の家に行って相談した。相談中に座具がひとりでに壊れて不吉の前兆を知り、秘密を守ることを誓って計画を中止した。

有間皇子が帰って寝ていると、夜中に赤兄は、人を使って有間皇子の家を囲んだ。そして、早馬を使わして天皇のところへ奏上した。その後、有間皇子は、捕えられて白浜温泉に送られた。歌は、この旅の途中で歌われたもの。白浜温泉では、中大兄皇子に会って「どんな理由で謀反を図ったのか」と聞かれた。この後、帰りに有間皇子は、藤白坂で絞首にされた。

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この有間皇子の絞首までのストーリーは、中大兄皇子によって仕組まれたというのが一般的解釈です。中大兄皇子が有間皇子に対して、謀反を仕組んだ理由は、1.9 クロマツ(巻②111)で説明します。

スダジイ:

スダジイは、一般的なドングリの木です。ドングリと言われる木の実は、色々な種類がありまが、最も良くある小さなドングリです。